2万人殺して成立した「日韓併合」

元記事作者様ザ・ブッタ斬り



前文

「韓国側に頼まれた・韓国の皇帝や政府が認めた・韓国のため・国際社会が認めた」等々、日韓併合を正当化する様々な歴史認識が、世間に出回っています。

以下の情報を見れば、日本の都合で韓国を強引に植民地化したことは、否定できません。

韓国民の長期にわたる根強い抵抗運動を討伐し、約2万人を殺して一応鎮圧した後に日韓併合が行われたことこそが、それを象徴しています。


1.韓国から求められた?日韓併合

「日韓併合は、韓国最大の政治団体(一進会)に求められて行われたことであり、正当である。」という説があります。実態は、下記の年表情報から判断できます。

「日本史年表  増補版」 岩波新書  歴史学研究会編

1909/12/4 韓国一進会、日韓合邦に関する上奏文を韓国皇帝に提出、却下される

1910/9/12 韓国統監府(ブログ注:韓国を支配する日本の官庁)、朝鮮の全政治結社解散の方針により一進会を解散。

(コメント)
一進会による「日韓合邦」の上奏は韓国皇帝により却下され、また、一進会は日韓併合直後、日本によって他の政治団体とともに解散させられています。

一進会に対する評価は様々ですが、日韓併合直後に一進会を解散させた日本が、「一進会の求めによって日韓併合を行った」などと言える筋合いは、ありません。

(注:一進会が求めた「日韓対等の合邦」と「日韓併合」は異なるものです。)



2.韓国皇帝による抵抗

当時韓国の主権者であった韓国皇帝は、日本による韓国支配への動きをどう見ていたのでしょうか、以下年表情報を参照願います。

「日本史年表  増補版」 岩波新書  歴史学研究会編
1904/2/10 宣戦布告(日露戦争)

1904/2/23 日韓議定書調印

1904/8/22 日韓協約(第1次)調印

1905/9/5 日露講和条約調印(韓国保護権、南樺太・遼東租借権、東支鉄道支線などを獲得)

1905/11/17 第2次日韓協約調印(外交権を日本が掌握)、朝鮮全土に反日暴動おこる

1907/6/15 第2回ハーグ国際平和会議開催(~ 10-18)・
韓国皇帝高宗、同会議に密使を送り、日韓協約の無効を訴える。

1907/7/3 伊藤韓国統監、ハーグ平和会議への密使派遣で韓国皇帝の責任追及。

1907/7/19 皇帝譲位

1907/7/24 第3次日韓協約調印(韓国の内政全般を掌握)

1909/12/4 
韓国一進会、日韓合邦に関する上奏文を韓国皇帝に提出、却下される

1910/8/22 韓国併合に関する日韓条約調印(-29 公布施行)

(コメント)
韓国皇帝が、ハーグ国際平和会議に密使を送り、(日韓併合に先立って締結されていた)日韓協約の無効を訴えたということは、日韓協約が(韓国皇帝によって公式に承認されたことになっていても)、納得ずくで締結されたものではないことを象徴しています。

それは、この後1910年に日韓併合のために締結された「韓国併合に関する条約」も納得ずくで締結されたものではないことを、示唆しています。
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[ 2012/08/22 ] 韓国・朝鮮史

「西蔵の平和的解放の弁法に関する協定」と「韓国併合条約」

元記事作者様誰かの妄想



ま、どちらも強制されたもので似ているな、と。


「西蔵の平和的解放の弁法に関する協定」というのは、1951年5月にチベット代表団が北京で中国共産党政府と結んだ協定であり、締結にあたって人民解放軍の圧力があったことは想像に難くない。

この協定は、同年9月にラサのダライ・ラマ14世(当時16~17歳)によって、批准されている。


また、1950年10月の人民解放軍のチベット侵攻に際し、チベット政府は英米インドに支援を要請したが、英米は同情のみで具体的な支援は行わず、インドにいたっては「チベット問題は中国の内政問題」として取り合わなかった。


この辺は、ハーグに密使を送ったにも関わらず列強から支援を得られなかった大韓帝国皇帝を髣髴とさせる。


また、1910年の韓国併合条約締結にあたって、地方では義兵などの反日闘争が展開されたものの、ソウルでは日本軍の圧力により(当時、韓国軍は伊藤博文によって解散させられ、日本軍1個師団強が展開していた)平穏だったことも、1951年のチベットに似ている。


と、ここまで徒然に書いたのであまりまとまってないなあ・・・。ま、いいか。
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[ 2012/07/20 ] 中国の民族問題

「1910年の朝鮮人平均寿命26歳説」の謎

元記事作者様誰かの妄想・はてな版



内容はタイトル通りです。

嫌韓バカによって流布されている説の一つである、1910年の平均寿命26歳説だが、ネット上では諸説あって、24歳説や、20代説など混在している。

問題はそのソースなのだが、これがどうもはっきりしない。

歴史関連のデマ・不正確さには定評のあるwikipediaには以下のような記載があり、

衛生面では、朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病の予防政策も行われて乳児死亡率は減少し、また農地の開発により食糧生産量も激増したことで、人口は、併合時(1910年)の調査では13,128,780人[44]だったものが1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた[45][46]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE


平均寿命関連の参考文献として、朝鮮総督府『統計年報』と黄文雄(笑)の『歪められた朝鮮総督府』があげられているのだが・・・。

実際に調べてみたが「統計年報」にも「歪められた朝鮮総督府」にも、1910年当時の平均寿命の記載は見当たらなかった。

つまり、ソース不明。

怪情報と言う他ない。

というわけで、ソースをご存知の方、ご一報いただければ幸いです。


ちなみに、日本人の平均寿命も30歳を超えたのは明治に入ってからなので、1910年当時の朝鮮人の平均寿命が20代であっても特に不思議ではないのだが、1910年の統計はかなり精度が低く平均寿命が計算できるようなものではないので、どうやって”26歳”という数字が出てきたかは不思議なのです。
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[ 2012/07/14 ] 韓国・朝鮮史

人口増加は善政の証という勘違い

元記事作者様誰かの妄想・はてな版



前回は、日本の朝鮮統治善政の根拠として嫌韓バカが用いる人口推移データに対して、若干の考察を以て補正してみたわけですが、

嫌韓厨が示す朝鮮の人口推移データを考察する|誰かの妄想


もちろん、嫌韓バカは「日本統治期間中に人口が増加していることは変わらないじゃないかwww」とか言って嘲笑するのでしょうが(そもそも怪しげなデータを使っての主張を恥ずべきなのだが、嫌韓バカの辞書が落丁が多く「恥」という字が存在しないので指摘しても無駄)、これには続きがあります。


朝鮮の人口推移

朝鮮人口(推計)備考
1717年1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計)
1753年1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
1777年1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1850年1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
1877年1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1910年1631万人(警察調査1313万人からの推計)
1915年1703万人(警察調査1596万人からの推計)
1920年1763万人(警察調査1692万人からの推計)
1925年1902万人(警察調査1854万人からの推計)
1930年2044万人(警察調査1969万人からの推計)
1935年2221万人(警察調査2125万人からの推計)
1940年2355万人(警察調査2295万人からの推計)

これを見ると、補正後のデータでも1910年から1940年までに人口は1631万人から2355万人まで確かに増えています。

30年間の人口増加率は44%、1年平均増加率は1.2%である。

これ自体、既に山木さんが指摘しているとおり、同時期の日本の人口増加率とほぼ同じであって朝鮮の人口が急増したとはいえないわけです。

blog*色即是空

もちろん、これに対する反論として考えられるのは、

【嫌韓ちゃん】「日本は、朝鮮に対しても日本と同様に扱ったため、朝鮮も日本と同様に人口が増加した」


というものです。

実は、この時期、日本の人口増加に日本自身が困り、海外移民や朝鮮への殖民などの人減らしを行ったり、朝鮮からの米の輸入により内地の食糧自給率を高めようとしたり(当然、朝鮮では米が不足する。いわゆる飢餓輸出の状態)するわけで、人口増加が善政の結果ではなく、むしろ当時の日本が決して先進国などではなく人口抑制ができない途上国であったことを物語っているわけですが・・・

しかし、そういってしまうとそれなりに知識のある人たちには「確かに人口増加したからって善政とは限らんよね」と理解できるでしょうけど、嫌韓バカや、その方面の知識を専門としない普通の人たちには理解しづらいので、もう少し説明を続けます。


ところで「日本の朝鮮統治が善政だった」という主張には、暗に「日本の統治は欧米の植民地支配とは違う善政だった」という欧米との比較が含まれています。

そこで、じゃあ、欧米の植民地ではどうだったかを調べてみましょう。

(この辺、嫌韓本には「人口が減った」とか色々書かれていますが、ソースが不明なもの、特定の一時期・地域の状況のみ示したものばかりで全体の傾向がわからないので、あまり役には立ちません)
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[ 2012/07/01 ] 韓国・朝鮮史

大韓帝国の光武改革=日韓併合前の近代化政策

元記事作者様中山グループ(天宙聖法真の王国連合)やお休み派、反対派から帰って来い!!



日本が韓国を植民地支配するときに、それを正当化するためにいろいろな論理がその当時から使われました。

その当時から今にいたるまで非常によく使われる論理が、朝鮮は悲惨だった、自力では到底、近代化できる能力のない国だった、だから植民地支配していいのだという論理です。

自力近代化ができない国は、植民地支配してもよいという論理は正しくないのは、もちろんです。

【 もしも正しいのならば、中華人民共和国のチベット支配や、ウィグル支配も正当化されてしまいます。】

しかしここではその論理が正しいとして、考えてみます。日本の韓国支配は正しかったのでしょうか? 正当化できるものなのでしょうか?

正しかった、韓国にその当時、自力近代化の能力はなかったという主張があります。

その例として、イギリスの旅行家のイザベラ・バードが書いた『朝鮮紀行』もよく引用されます。「ソウルが世界でいちばん不潔な町だと思っていた。中国の北京を見るまでは、そう思っていたといった内容の記述があるからです。


ところが、同じ本の後半はめったに引用されません。

韓国が自力近代化の可能性を示していた部分が記述されているからです。


イザベラ・バード『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)の本の第三十六章「一八九七年のソウル」P543~544には次のような記述があります。引用しましょう。読みやすく改行していますが、そのまま引用してあります。
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[ 2012/06/26 ] 韓国・朝鮮史